History
 

 

 

 

 

 

 


1543年 天文12年8月 ポルトガル船が種子島に鉄砲を伝えたことは、歴史の書物には良く出てくるが、それ以前にも日本近海には、頻繁に南蛮船が来航していたと思っても不思議なことではない。九州への南蛮船来航を、古文書に記載されていることについてのみ、ここに抜粋してみましょう。

あくまでも、記録に残されていることだけですが、その他にも沖縄から奄美大島近海にかけてと頻繁な九州来航があったと考えても間違いないでしょう。

 

南蛮船の知られざる九州来航
 

 


それは、1561年 永禄4年 のことであった。三隻のポルトガル船が九州に来航した。

第一船はアイレスポテリョの船で、長崎県の平戸に入港。第二船はアフオンソワスの船で、鹿児島県の阿久根に入港。第三船はマヌエル・デ・メンドーサの船で、鹿児島県坊津の泊津へ入港した。

ここで、興味深い記録が残されている。

豊後にあった宣教師の伊留満ルイス・デ・アルメイダは、薩摩に信徒を得る為に伴天連(ばてれん)コスメ・デ・トルレスに因って派遣された為と、マネル・デ・メンドーサの船が、薩摩の坊津は泊浦に停泊していて、所用の為に来薩することになった。そのアルメイダは、1546年に初めて薩摩に来たことがあったが、当時豊後にあって、1561年の末に豊後を発ち、阿久根に赴いた。ポルトガル船第二船のアフオンソワスが越冬中であったったからである。そこから、同じく陸路を、宣教師達にはザビエル以来縁故のある鹿児島県の市来城を訪れた。当時は、市来に15人の信徒が居て、アルメイダは、その信徒達と会った。そして、市来城主の夫人が熱心な信仰者であったことから、その御子息に洗礼を授けた。アルメイダは、陸路を市来より鹿児島に向かった。そして、トルレスから託された薩摩藩主島津貴久宛ての書簡を奉呈した。薩摩に暫く滞在した後、貴久に暇を請い、島津貴久から預かった宣教師のトルレス宛ての書簡を謝し、10月25日、貴久より別辞を受けた。更にアルメイダは、ポルトガル人と共にトマリンに赴く為に、2日後に、貴久から託されたインド総監宛ての書簡を持って、鹿児島を出帆して泊浦へと向かった。

その時、アルメイダは泊浦において、布教活動を行い9人の洗礼者を得た。第三船のマヌエル・デ・メンドーサの船は、翌年正月、トマリンを出帆した。ということである。九州各地ではこの時代、既に南蛮船や宣教師達南蛮人の往来が見られていた。

 

 薩摩は、南蛮船に対してどのような態度で接していたのだろうか?

山伏と真言宗を手厚く奨励保護していた関係から、薩摩のキリスト教に対する冷淡な態度は、自然と南蛮船の目的地をキリスト教伝道の利便性のある大名の港に、向かわせる事となった。薩摩の島津氏と対抗していた豊後の大友氏などは、キリスト奨励し彼らを歓迎して、富国強兵をはかっていった。

 

  南薩摩に於ける南蛮船の発着港とは

1618年 元和4年 英国人コックスの日記によれば、「薩摩の泊より書状を受領す」とあり、泊とは坊津の泊浦を指している。又上記したように南蛮船は、坊津諸港に入港し、坊津と深い関係があったと思われる。坊津は外航船の、つまりアジアや遠くヨーロッパなど南蛮船の有名な発着港でもあった。

 

何故、坊津であったのか?  時代背景を追ってみよう。

1623年 元和9年10月13日  第二代将軍秀忠は、キリシタン宗徒を火あぶりの刑にした。そのような時期に、同年6月、フランシスコ会の宣教師4人、ドミニコ会宣教師4人、オーガスチン派宣教師2人、計10人が坊津は久志浦に上陸して来た。中央より遠く離れ、リアス式海岸で海岸が入り込んで人目につき難いこのような坊津の地理的条件と知名度は、日本に侵入しようとする宣教師達にとっては頗る都合が良かった。

これらの条件は、宣教師達に入国経路としても多いに利用されたのであった。

 

 

  カスイ神父の坊津密入国

日本人宣教師ペドロ・カスイこと岐部氏は、豊後の浦部出身で大友氏の家臣であったが、迫害を恐れて呂宋(フイリッピン)に逃れていた。ローマの耶蘇(やそ)教会のセミナリオ(学校)で修業し宣教師となった。その後故国に布教しようと企て、1623年3月25日リスボンを出帆した。同年7月25日ケープタウンを回航し、翌24年の3月28日にインドのゴアに着いた。それから、フイリッピンのマニラに着き、そこで色々と準備し、1603年 寛永6年の3月2日にマニラを出帆した。近くの島で、6月まで季節風を待っていたが薩州坊津を目指して出帆した。途中順風に乗って薩摩に近づいたが、七島海峡で嵐に遭い難破。幸いにも乗組員全員が助かり、島の人達の手厚い保護を受けていた。遭難の傷も癒された頃、島の人達の情けによって別の船で航海を続けることが出来た。1666年 寛文6年 薩摩半島の西南端に位置する坊津に秘密裏に着岸を果たした。商人に化け、港の取締を通り抜けて、無事に坊津に上陸することができたのであった。

こうして、カスイ神父は、16年の放浪の後、再び故郷の土を踏むことになった。それは、33歳の時であった。

布教活動を続けていたが、52歳で捕われ江戸で処刑。同行上陸した日本人宣教師とは、ジェロニモ・伊予・ミゲル松田であった。

 

 

宣教師の密入国失敗

宣教師の密入国は、成功だけではなかった。1708年 宝永5年8月28日 イタリア人のジョバンニ・パティスタ・シドッティが、屋久島の恋泊に潜入して捕まり、坊津に送られて来た。暫らく坊津に幽囚されていたが、坊津から長崎へ、更に江戸に送られて、小石川のキリシタン牢に入れられた。

新井白石は、彼に接見して西洋事情を聞き出して、「西洋紀聞」を書いたとされている。

 

 大陸との交易の拠点だけではなく、宣教師達の上陸地点が、坊津であったことは興味深い。

 

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